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五話 幼蝶の心は彼方に1

 

「……ラテロ兄さん」

 のろのろと顔を上げた先にいたのは、家の隣に住む――レンが「羽化」に感銘を受けるきっかけとなった男であった。
 かつては「おにいちゃん」と呼んでいた青年も今や三十代。おにいさんと言える歳なのかは年々わからなくなってきているが、レンは今も彼を「兄」と呼んで慕っていた。
 彼――ラテロの顔を見ると、いつもなら嬉しくなる。だが、今日ばかりは違った。
 どうして今、と思う。今は誰にも会いたくないのに。

「……レンくん、酷い顔をしてる。なにがあったの」
「なんでもない、大丈夫だから……」

 しかしそう言いつつも、自分が全く「大丈夫」ではない顔をしているのだろうと自覚があった。それでも無理やり笑みを作る。

「大丈夫だから、もう行って」

 ラテロは痛ましげな顔でレンを見る。だが、声をかけあぐねているのか、何度か口を開閉させるも、何も言葉は発しない。
 だが、無言でいたのも少しの間だった。ラテロは意を決したように、表情を引き締める。

「レンくん少し待ってて。いいね? どこにも行かないで、そこにいて」

 そう言うと、彼は足早に姿を消す。
 一人になると、つい先刻まで一人になりたいと思っていたにもかかわらず、強烈な寂しさが胸を襲った。
 しかし、それが胸を埋めて身動きできなくなる寸前、ラテロが再び姿を表した。

「ああ、よかった。ごめんね、一人にして」

 彼の手にはレンの実家の鍵が握られている。両親もレンも不在となった家の管理を任せている相手であるため、彼がそれを所持しているのに不思議はない。だが何故、今それを持っているのだろう。
 ラテロはずんずんとこちらに歩み寄ってきて、レンの横を素通りし、玄関の鍵を扉に差し込んだ。カチャと軽い音がして、扉が開く。

「レンくん、おいで」

 ラテロが扉を開けながら、こちらを振り返る。

「兄さん……俺は……」

 レンが立てずにいると、ラテロは首を横に振って、レンの腕を掴んだ。

「来なさい、レン」

 彼はレンの腕を引き立たせると、そのままレンを家の中へと引っ張ってゆく。
 レンは彼のはじめて見る強引な姿に驚きつつ、そのまま引きずられていった。

 

 

***

 

 

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