姿を消した彼は海に魅せられた男と邂逅し2
「これ…だけですか?」
ニクスは顎に手を置いて、目の前のカウンターに並べられた三枚の紙を見下ろしていた。
ミアメールの町に辿り着き、前もって契約していたアパートメントまで行ったのが昨日。
届いていた荷物の荷解きもそこそこに、旅で疲れた身体を固い床で休め、朝一番に来たのがここ、職業斡旋所だ。
担当の職員はニクスに負けず劣らず、困った顔をして頷く。
「海沿いで、このエリア……となりますと募集があるのはこれだけですね。あとは夏季限定の店が多いので」
「……なるほど」
いわゆる海の家が多いらしい。
「うーん……」
宿屋、飲食店、土産物屋。それらの働き手募集が書かれた紙をじっくり見聞するが、どうにもピンとこない。
繁華街の方へ目を向ければ、もっと募集があるのはわかっていた。しかし、「海が見える場所」という点は、ニクスにとってどうしても外せない条件なのだ。
これから暮らすアパートメントが、家賃の関係で海から遠い場所にある。そのため、海を目的にここまで来たニクスとしては、できる限りの時間を海の傍で過ごしたかった。
賃金が良いのは宿屋。だが拘束時間があまりに長い。融通が効きそうなのは土産物屋だが、給金が安ければやはり長時間働くことになる。消去法でいえば、飲食店なのだが――
「――少し、考えます」
結局ニクスは決めきれずに、三枚の紙を鞄に入れると、その建物を出た。
「はぁ……、どうしようかな」
暫くは働かずとも暮らしていけるが、いつまでもそうしてはいられない。
「――海にでも行くか」
空を見上げれば、とても良い天気だ。
いつまでもうじうじと悩んでいても仕方がない。
ニクスはゆったりと海の方へと向けて歩き出した。
まだ町の地理に疎いニクスだが、海に向かうのはそう難しいことではない。
町並みの隙間から見える景色と潮風を辿ればいいだけだからだ。
「…………海だ」
砂浜にサクリと足を踏み入れて、深呼吸をする。
二年ぶりの砂の感触を素足で確かめたかったが、まだ少し風に肌寒さの残る季節のため仕方なく諦める。
「少し、歩くか」
青い海をぼんやり見つめながら、白い砂浜をゆったりと歩く。
頭の中で言葉をもてあそびながら、砂を踏みしめる音や引いては返す潮騒を聞く。
その時、ふと視線を感じて顔を上げた。
砂浜のすぐ近くに建った家のベランダ――テラスという方が正しいかも知れない――に、男がいることに気付く。少し長めの黒髪を後ろで一つにしたその男は、キャンバスを前に座っていた。
不意にその男と目が合う。
「……!」
一瞬、時が止まったかのような錯覚を覚えた。
けれどすぐにハッと覚醒して、慌てて目礼だけするとニクスはすぐに彼から目を逸らす。
しばらく早足で歩いたところで、ぽつねんと立つヤシの木に気付いたニクスは、ようやく歩調を緩めた。その根元に腰を下ろすと、手帳を取り出して海の方を見る。
「…………、……いやいやいや」
先程の黒髪の男が脳裏に浮かび、ニクスはぷるぷると首を振った。
そう。自分は羨ましいのだ。海の近くに居を構える彼が。
断じて、それだけである。
***
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