先に巣立った彼は咲わない娘に魅せられて2
オドラー商会は芸術家の作品も取り扱っている。
ルークは父について様々な勉強をしていた頃に見た、まだ無名の――けれど心に残る作品と出会っていたのを思い出したのだ。
その芸術家は世に殆ど出ていない。
その作品集をいち早く手に、可能ならば独占販売権を手に入れられれば――。
そんなことを思いついてから、早一月。
ルークはいくつかの町の名前が書かれたメモを手に、溜息をついた。
「……で、ここで見つからなけりゃ、また振り出しなんだよなぁ」
メモの名前には斜線が引かれ、最後の一つが残るばかり。
それがここ、海の町ミアメールだった。
ルークは遠くに見える海岸線に目を眇めて、記憶の中の「ある絵」を思い起こす。
「ちょっと……、似てるか?」
とある取引先の客間に飾られていた絵が、どこかの海辺を描いたものだった。その絵はその界では少々名が知られはじめた画家のものだったのだが、その正体はよく知られていない。故に、その画家が住んでいる場所から探す羽目になったのだ。
その画家は同じ海ばかり描いているため、その近くに住んでいるのだろうと当たりをつけ、候補をしらみ潰しに探していた。
「……とはいえ、だな……」
ルークは町の繁華街へと足を向ける。
季節は秋。海への観光客に支えられているこの町は、季節柄人通りが落ち着いている。だが、想像以上には賑わいがあり、ルークは内心渋い顔をした。
商人として市場に賑わいがあるのは嬉しいことだ。しかし人探しという点では、住人全員が知り合いといった雰囲気の方が、当然ながら都合がよい。
なにせ、ルークが探しているのは、その「画家」ではなかったので。
ルークは海の書かれた絵の右下に、小さく書かれていたものを思い出した。
夕闇に沈む
触れた手の熱さは 海に消ゆるか
闇の中にも瞬く星よ
細い線で流れるように書かれた短い詩は、何故だかルークの目を惹き付けて離さなかった。
それからルークは、
そして、その詩が書かれたキャンバスの額で見えなくなるところに、「ニコラス」とサインがあったのだ。
ルークは、その「詩家ニコラス」を探していた。
***
次話 挿話2 先に巣立った彼は咲わない娘に魅せられて3
目次
先に巣立った彼は咲わない娘に魅せられて1
「ルーク、お前に一つ課題を与える」
静かな部屋に、厳かな男の声が落ちた。
ついに来たかとルークはごくりと唾を飲み込んで、男――父の言葉を待つ。
「後継者指名の最終試験だ。この商会における、次の売れ筋商品を見つけてきなさい」
「はい」
ルーク――蝶の国で知らぬものはいないオドラー商会唯一の跡取り息子は、神妙な顔で父の言葉に頷いた。
「――とはいえだよ。そうないわけ、次のヒット商品なんて」
ルークは爪楊枝を噛みながら、酒の入ったグラスの氷をくるくるとかき混ぜつつぼやいた。
「はあ……、大変そうだな……?」
対面にいるのは、アカデミー時代からの友人二人。気のない返事をしたのは、少し長い金茶の髪を後ろで一つにまとめた青年レンだ。
もう一人の、短い黒髪をした大人しそうな青年ファルは、怪訝な顔をする。
「……僕としては、君が大商会の跡取りっていうのが、未だに信じらんないんだけど」
「確かに!」
「え、ひどっ……」
わざとらしく傷付いたような表情をつくるルークに、二人がケラケラと笑った。それを見て、ルークも堪えきれずにその笑いに追従する。
何も問題は解決していないが、懐かしい空気に強ばりが解れていく気がした。
アカデミーの通常課程を卒業してから三年。
上流課程へ進んだ彼らとは、こうして会える機会は当然減ってしまい、急に昔を懐かしく思える。
「――あ」
その時ふと記憶が浮かび上がり、ルークは声を上げていた。
二人が不思議そうな顔でこちらを見る。
「どうかしたか?」
「何とかなりそうかも」
レンの問いに、ルークはニヤリと笑った。
***
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姿を消した彼は海に魅せられた男と邂逅し7
「ぁ……、ん…………」
何度も何度も角度を変えてのキスが続く。
次第に頭がぼんやりして、抵抗をしていたはずの手は、彼の服を握りしめていた。
「は…ぁ……」
どのくらいそうしていたのか、ようやく解放された頃には、足に力が入らなくなっていた。ニクスはツェントに縋りくような格好で息を整える。
「ニクス」
ぴくりと身体が跳ねた。
「俺は君に惹かれている」
「っ――」
真っ直ぐな、逃れようもないほどにシンプルな言葉に胸が苦しくなる。
「君もそうなんじゃないかと俺は思っている。……違うか?」
どうしてそんなにも、愚直に気持ちをぶつけられるのだろう。様々な、形容しがたい気持ちが浮かんで、上手く言葉にならない。
ニクスはぎゅっと目を瞑って、ツェントの胸に頭をこつんとぶつけた。
「……そう、だよ。僕はきっと、あんたをはじめて見た、その時から……。……でも――」
「なら何も問題ない」
ツェントの手がニクスのきつく握りしめられていたその手に重ねられる。
「俺も――、そして君も。お互いに惹かれている。なら、何も問題はない」
「そんな簡単な問題じゃ……」
「簡単なことだよ」
ニクスはのろのろと顔を上げた。
「過去は関係ない。今こうして俺たちはここにいる。それ以上に重要なことなんてない。そうだろう?」
「……あんたは、」
ニクスは困ったように笑った。
泣きたいような、けれど心の奥に凝っていたものが、解けていく気がする。
「――……許して、くれるかな。幸せに…なっても」
目を閉じれば、かつて迷惑をかけた彼らの顔が浮かんだ。
今はもうどこで何をしているのか、知る術もない。けれど――
「ツェント」
彼らは困難があっても、前を向く人たちだった。いつまでも誰かを恨んで不幸を願うような、そんな人たちじゃない。
「僕も、あんたを――、慕わしく思ってるよ」
ニクスはツェントの首に腕を回して、その体温を感じる。
明日は僕も、海と、ツェントを詩に書こう。
波の音と彼の眼差しが感じられるような。
そんな詩を。
***
これにて、ニクスの物語は終了です!
お読みくださり、ありがとうございました~!
……過去一、甘かったんじゃないかな。
というか、今後含めてもけっこう上位に甘いな、たぶん。
まあ、それはさておき。
来週も別の人物のお話になります!
一章終了時点でお知らせしました通り、男女恋愛になるので、苦手な方は1ヵ月……くらい、お待ちくださいね。
次の挿話が終わりましたら、本編に戻ります!
***
目次
姿を消した彼は海に魅せられた男と邂逅し6
「――……」
ニクスは真剣な眼差しで海とキャンバスとを見つめるツェントの横顔を見ていた。
音をたてるのも憚られるような、神聖とも言える空気を感じる。
聞こえるのは絵筆が滑る音と、潮騒だけ。
ニクスは目を閉じて、その音色に耳を傾ける。
心地のよい静寂からしばし。ふと視線を感じて目を開ければ、ツェントがこちらを見ていた。
「……なに?」
「いや……、きれいだと思って」
飾り気のないその言葉にニクスは瞠目する。
「…………『海』が?」
照れを隠すように空とぼけて聞き返した。
「その……、」
ツェントはまごついたように視線を彷徨わせて、しばし黙る。だが、意を決したように顔を上げた。
「――ニクス、海に行かないか」
「海に?」
ツェントは立ち上がると、テラスから直接浜へと通じる階段の方へと歩いていく。そこに一段足を下ろすと振り返って言った。
「ずっと海と君を描きたいと思っていたんだ」
差し出される手。
ニクスはゆっくりと立ち上がって、その手に己の手を重ねた。
ニクスは靴を脱いで波打ち際に足をひたす。
少し冷たいその水にほんの少し肩を竦ませながら、水平線の向こうを見つめた。
ちらりと後ろを振り返れば、砂浜にツェントが腰を下ろしてスケッチブックに鉛筆を走らせている。
視線を感じたのか彼が顔を上げ――視線が絡むと、優しい笑みが返されて、ニクスは思わず視線を外した。
しまったと思い直して彼の様子をちらりと確認すれば、とくに気にした様子もなく手を動かしている。
よかったような、少し物足りないような。
そんな気持ちになりながら、ニクスは空を仰ぐ。
夕暮れに差し掛かりはじめた空は、薄い青と赤のグラデーションが広がっていた。
そういえば彼と初めて会った時の色に似ているな、と思い返す。
「ニクス」
ぼんやりしていると、ツェントが近付いてくる足音が聞こえた。
「……描き終わったのか?」
「ひとまずは」
「ふーん……。……見ていい?」
ニクスは海から上がって、頷きを返すツェントからスケッチブックを受け取る。
「――っ」
そこには波打ち際にいるニクスの後ろ姿が、ラフなタッチでいくつも描かれていた。
波に足を浸した姿や、水を軽く蹴り上げた瞬間。それから、ふと振り返った時の――
「……あんたの目には、こんな風に見えてるのか」
どこか呆然とした気持ちで呟く。
紙面上にいるニクスは、グッと胸を掴まれるような侵しがたいほどに神聖な、けれどどこか色を感じる、そんな姿をしていた。
ツェントがこちらに手を伸ばして、頬にかかっていたニクスの髪を耳にかける。
「言っただろう、『きれいだ』って」
「――僕は、」
彼が一歩距離を詰めた。どんどん影が近付いて、ニクスは思わず目を閉じそうになる。だが、
「……そんな人間じゃない」
間近まで迫った唇がピタリと止まった。吐息を感じるほどの距離で視線が絡む。
このまま、何も言いたくはなかった。このまま、彼の気持ちを、行動を、受け入れてしまいたい。
けれど過去の過ちが、胸を締め付けてそれを許さないのだ。
ツェントのまっすぐな感情を、受け入れるにはあまりにも、自分は――。
「僕は、あんたみたいに真っ直ぐじゃない」
一心にキャンバスへ向かう背中を何度も見た。繊細に動く指先、一点を見つめる視線、それらはあまりに眩しかった。
「『きれい』なのは、あんたの方だよ……」
どれほどに悔い改めても、自分が己の欲のために人を陥れようとした過去は消えない。
このまっすぐな男に、自分は相応しくない。
そんなことはもう、ずっとはじめに分かっていた。
ニクスはツェントの胸を押す。
「だから、それ以上は――」
言わないで。
その祈りのような願いは、言葉になりきらなかった。
「いやだ」
そう囁いたツェントは、ニクスの顎をやわい力で、しかし素早く掴む。
そして気が付いた時には、唇が重なっていた。
***
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姿を消した彼は海に魅せられた男と邂逅し5
「ツェント! もう昼だぞ、起きろ!!」
「うぅん……」
ニクスはアトリエの床に沈む男――ツェントの傍で仁王立ちをして叫ぶ。
だが彼の反応が鈍いのはいつものことで、起き上がろうとしないその姿に深い溜息を落とした。
「……来週、納品なんだろ。コーヒー入れてやるから起きてこいよ」
微かに頷くのを見て、ニクスはキッチンへと踵を返す。
俺の家で働かないか、と問われてから早三週間。
はじめは雇い主だからと遠慮していたニクスも、あまりに頼りのないツェントの扱いがどんどんと雑になっているのを自覚している。
だがそれもこれも、彼がニクスに与えた仕事を遂行するためには仕方がない。
ニクスの仕事――画家であるツェントの助手、などと言えば聞こえは良いが、要するに何でも係だ。業務内容は、炊事、洗濯、掃除、経理に日程管理。それから、朝の弱いツェントを叩き起こし、腰の重い彼の締切に向けて尻を叩き、外で描きがちな主人の肩に上着をかける。
――嫁か。
そう思ったのは、この仕事をはじめて三日目だったような気がする。
とまあ、まるで不満があるかのように言ってみるが、実際のところそう悪いものだとは思っていなかった。なんなら、気に入っているとさえ言ってもいい。
ニクスはしゅんしゅんと湧き出したポットを、熱を発生させる魔導具から外した。挽いた豆に細くその湯を回し入れて、フィルターを通してコーヒーが落ちていくのを見守る。それを何度か繰り返していると、背後に気配を感じた。
「起きたか?」
振り向かないまま、その気配に問いかける。
「もうちょっとだから――」
だが最後まで言う前に男の腕が腰に回り、肩口に頭を押し付けられる。
「――……ツェント、重い」
自分より上背のある彼に文句を言ってみるが、しばらく離れないのも分かっていた。
ツェントの気が済むまでその体勢で静止していると、ふわりと拘束が解ける。
「……おはよ、ニクス」
「っ――、もう昼だからな!?」
まだ寝ぼけ眼の微笑に胸がぎゅっとなるような心地がした。
だがそれを悟られないように、素っ気ない振りをする。
ニクスが仕事を開始した間もなくから続くこの男の行動には、いつまで経っても慣れそうにない。
相手にとってこれは、きっとなんでもない。ただの寝ぼけゆえの奇行。だというのに、どうして自分ばかりが動揺しているのか――。
妙に腹立たしさを感じるニクスは、出来たばかりのコーヒーを雑にカップへと注ぐと、赤い顔が見られないようにツェントにそのカップを押し付けた。
***
次話 挿話1 姿を消した彼は海に魅せられた男と邂逅し6
目次
姿を消した彼は海に魅せられた男と邂逅し4
肩をゆすぶられる感覚。
そのやわい振動に、ゆるゆると意識が浮上していく。
「…………ぅん……」
ゆっくりと目を開けると、手元にはびっしりと文字の並んだ手帳がある。
何のことはない。自分がいつも言葉をしたためている手帳だ。
じゃあ自分は何をしていたのだったか。
ニクスはのろのろと頭を上げて――、目を見開いた。
「あ、んた……、たしか」
目の前に整った顔を男がいる。
その端正な相貌にしばし見惚れて、思い出した。
浜辺から見えた家にいた男だ。
ぱちぱちと目を瞬かせると、彼はほっと表情を緩めた。
「よかった、目が覚めたか。もう日が落ちてきた。風邪をひくぞ」
「あ……」
男の言葉に周囲を見渡せば、太陽は水平線の向こうに沈もうとしている。
どのくらい寝ていたのか、冷たい潮風が身に沁みた。
「えっと、その……ありがとう。あんたの言うとおり、風邪をひくところだった」
ニクスは立ち上がると、砂のついた尻をはたく。
そして男の方へ向き直ると、丁度彼の後ろに紫色がかった夕暮れの空と、同じ色をした海が見えた。男は逆光になっていて、なんとも言えぬもの寂しいような、それでいて艶めいた、そんな景色がある。
ニクスは衝動的に、一度は閉じたはずの手帳を開き、浮かんだ言葉を書き留めていく。
「――君は、作家か?」
一通り書き終えた頃、男が口を開いた。
「そんな大したのじゃないよ。ただ……趣味で、その……詩を書いてる」
ニクスはどことなく気恥ずかしさを覚えて、ふいと海の方に視線を向けた。
「ここの……海が忘れられなくて、移ってきたんだ」
男もニクスにつられるように海に顔をむけて、目を細める。
「ああ……。それは、よく分かる」
お互いそれきり黙って海に沈む夕日を見ていた。
その時、ふいに強い風が吹いて、髪を乱していく。あまりに強い風にぎゅっと目を瞑り――、次に開いた時、男と視線が絡んだ。
「――――あ、と……、僕っ、もう行く、から……」
絡めとられそうな視線だった。
それが少しだけ怖くて、ニクスは傍らの鞄を掴もうとする。だが、慌てていた手は上手くその鞄を掴めずに、半開きのそれから中身が飛び出した。
「あっ」
財布と家の鍵。それから、もらったばかりの求人情報の書かれた紙。
「君は……」
男がその紙に指で触れる。
「仕事を探しているのか?」
「……その、まだこの町に来たばかりだから」
落ちた私物を仕舞ったニクスは、最後に紙を拾い上げようとした。
だが、その手はその紙に触れる前に、男に掴まれる。
「っ!?」
ニクスは驚いて抗議の声を上げようとする。しかし、それが言葉になる前に男はこう言った。
「なら、俺の家で働かないか?」
「…………え?」
寄せては返す波の音だけが聞こえる。
空には星が輝きはじめていた。
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姿を消した彼は海に魅せられた男と邂逅し3
海の畔に住む彼――ツェントは、ミアメールで生まれ育った画家だ。
見る度にその顔を変える海の景色を愛し、ただその美しさを絵に描き起こしてきた。
彼にとって大事なものといえば、海と――あとは、一つ下の妹。そのくらいだった。
「……おかしい」
どうにも集中できず、キャンバスに絵筆をとるのを諦めたツェントは、スケッチブックを前に鉛筆を握りしめて、小さく呻いた。
目の前の紙には、先程一度だけ見た見知らぬ青年の横顔が描かれている。
「おかしい」
ツェントは頭を抱えて溜息をついた。
ラフ画として描かれた名前も知らぬ青年は一人ではない。数ページに渡り、幾度も描かれていた。
目が合った時の驚いた顔。目を伏せた時の眼差し。足早に去る横顔。歩き去る後ろ姿。果ては、遠くに小さく見える、ヤシの木に寄りかかって海を見つめる様子を描いていた。
「俺が、こんなに誰かを描くなんて……」
これまで、ツェントの目を奪うのは海の景色ばかりだった。家族や友人を手慰みに描くことはあったが、こんなにも一心に――時が経つのを忘れるほど描いたのは初めてだった。
彼がツェントの前を通ったのは昼過ぎだっただろうか。しかし時刻は既に夕方。赤い日が海の向こうに消えようとしている。
「少し寒くなってきたな……」
ようやく多少は気が済んで余裕が出たのか、自身の身体を冷やす潮風に気付く。ふるりと身体を震わせて、部屋の中へ戻ろうかと思い――、ふと足を止めた。
「――彼はいつまであそこにいるんだ?」
ヤシの木の根元には、いまだに件の青年がいる。
あのままでは風邪を引いてしまう。
ツェントは居ても立ってもいられなくなり、テラスから階段を下って浜辺へと降りる。
そして、早足で青年の元へ急ぐのだった。
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